心揺さぶられたロシアW杯MVPのクロアチアのモドリッチ選手のプレイ

【サッカーから学ぶ組織開発・人材開発:松村卓朗】第75回:心揺さぶられたロシアW杯MVPのクロアチアのモドリッチ選手のプレイ~戦争難民出身のプレイヤーが、世界最高のサッカー選手になった~

matsu_seminarロシアW杯は、フランスの優勝、そしてクロアチアの準優勝で幕を閉じた。
個人的には、クロアチアに優勝してほしかった。史上8か国目のW杯優勝国の仲間入りをしてほしかった。
それは、クロアチアのサッカーに、あまりにも心を揺さぶられたからだ。
決勝トーナメントに入ってからは、3試合連続の延長を戦って制しての決勝進出。優勝したフランスより、90分、つまり1試合分多く戦っている計算になる。
そして、その中心には、キャプテン、ルカ・モドリッチ選手がいた。彼は、どの試合でも、所狭しと走り周り、攻撃のタクトを振り、守備の要となってボールを奪取し続けた。
決勝で敗れはしたものの、ルカ・モドリッチ選手は、大会MVPに選ばれた。私も当然と思ったが、多くの人が納得しただろう。
しかし、MVPをもらっても、モドリッチ選手は泣き顔だった。ロシア大会を象徴するシーンのひとつとして、彼が感情を押し殺そうとしている姿は私の瞼の裏に焼き付いた。

クロアチアに選手たちが帰国したとき、彼らを迎えようとクロアチア中から首都ザグレブ(トップ画像)に集まった人数は、なんと55万人と聞く。クロアチアの人口はわずか417万人だ。だから、実に人口の15%以上の人が、選手たちを祝福しにやって来たことになる。「小さな国の大きな夢」とW杯を表現していた。
クロアチアでは、戦争の爪痕が今なお残ると聞く。
モドリッチ選手に興味を持って調べてみると、実は、彼は戦争難民だったと知った。

1991年に起こった旧ユーゴスラビア紛争に巻き込まれたのは、モドリッチ選手が6歳の頃だ。彼の生まれた小さな村はセルビア軍の標的になった。生家周辺には、地雷が埋まっていることを示す標識が今なおあるという。
ルカという名前を授けてくれた彼の祖父は、91年12月、牛の世話をしている最中にセルビア軍に殺された。モドリッチはゲリラに捕縛された祖父が殺されるのを、その目で見たのだという。
家族は村を出て、約60キロ離れたザダルまで逃れ、難民となった。6歳で難民となったモドリッチは、家族とともにザダルの難民の仮住まいで暮らした。モドリッチ少年は、そこで難民の子供たちと、サッカーボールを蹴るようになり、一日中サッカーをして暮らしたという。

「避難した後も大変なことが起きているとは、実はわからなかった」と、モドリッチは当時を回顧している。両親が息子を、できる限り戦火を感じさせない環境に置こうとしたのだろう。
「ストリートが真のフットボーラーを生み出す」という言葉があるが、避難所でボールに集中する日々が、図らずも野生的な直感を鍛えたのかもしれない。
「ルカは幼少期に、一番辛い時期を乗り越えた。だから、ピッチでも苦しい状況を好転させることができるのだ」という言い方をする関係者もいる。
実際、「何千もの手榴弾が丘の上で爆発し、NKザダルのチームがトレーニングしていたピッチにまで落ちてきた。僕たちはそのたびにシェルターに駆け込んだ。サッカーは現実から逃げる手段だった」と、モドリッチ選手が語っている記事も目にした。
とても優しそうな顔をしていて、線も細いが、芯は強い、ということをプレイが感じさせる。

「敗因? 我々にはモドリッチがいなかった」
決勝トーナメント1回戦で対戦し、クロアチアに負けたデンマークの選手は、敗戦後にこう語っていた。苦しいとき、そこにはモドリッチが必ずいた。それがクロアチアの強さだ。
イングランドとの準決勝では、延長戦に入る前、モドリッチ選手は接触プレイと疲労で、ほぼ走れない状況になっていた。満身創痍で終盤は立ち上がるのもやっとのように見えたが、119分で交代する瞬間まで気迫を失わなかった。戦う気持ちだけで、勝負を決めるまではピッチに立ち続けた。
「我々は終盤が近づくにつれて、体が動くようになった。疲れているはずだったが、それを見せていない。誇り高い試合をした」
モドリッチ選手はそう言って、仲間たちの健闘をたたえている。しかし、その戦いを先導したのは、間違いなくキャプテンのモドリッチ選手だった。
どんな不利な状況でも、私達にはモドリッチがいる。クロアチアの選手達は、いつでもきっとそう思って、大きな力をもらっていたに違いない。

ところで、モドリッチ選手を調べていて、実は、元日本代表監督のハリルホジッチ氏も、難民出身だったという記事に出会った。皆さんはご存知だっただろうか。
ボスニア・ヘルツェゴビナ出身なので、母国の内戦という苦しい経験をしている。1992年、「第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争」と言われるボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が勃発した。当時すでにサッカーチームの監督として活躍していた彼は、自分の顔が知られていたことを使って、自宅付近で始まった銃撃戦に割って入って止めようとしました。しかし結局自らが銃弾を受け、重傷を負ってしまったという。それでも彼は病床からテレビを通じて、戦争を止めるよう訴えた。
彼の発言は民族主義者の反感を買い、脅迫を受けるようになり、自宅も焼き払われてしまったとのことだ。やむを得ず彼は財産をなげうって、フランスに脱出した。そしてフランスでサッカー指導者としてのキャリアを自力で再構築した。

日本で生活していると、「難民」のイメージがなかなか持てない。だから、どこか程遠い世界のように感じてしまっている自分がいた。しかし、「難民」といっても、紛争や人権侵害などで故郷を追われるまでは、私たちと同じように仕事や家があり、家族との日常があった人々だ。従って、「難民」をイメージするのではなく、「自分が日常を追われる」ということをイメージする方が、よほどイメージできるということに気づいた。
そして、逃れた先で生活を建て直し、活躍するということの難しさと尊さに、思いを寄せることができる。
ハリルホジッチ氏が、以前退任の会見で、「私の人生には困難な時代がありました。その中で私はサッカーが大好きになりました。サッカーのおかげで私の人生は素晴らしいものになりました。」と語っていたのを思い出した。そのときは、彼の人生の「困難」とは何か、あまり考えなかったが、今、クロアチアのモドリッチ選手のW杯での活躍の姿とともに、この言葉は深く刻まれた。

参考:
「難民支援協会ホームページ」https://www.refugee.or.jp/jar/report/2016/06/20-0000.shtml)
「Number」7月18日号